Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

今週の聖句

いつも兄弟愛を

兄弟愛をいつも持っていなさい(ヘブル人への手紙 13章 1節) 「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい(ヘブ 13:3)」へブル人への手紙の著者は兄弟愛の具体的実践として、そう命じました。つまり、苦しんでいる人に共感しな…

神は焼き尽くす火

私たちの神は焼き尽くす火なのです。(ヘブル人への手紙 12章 29節) 私たちは神は「愛」であると同時に「焼き尽くす火」であることを忘れてはいけません。このことは神の中に相反する性質があることを示しているのではありません。神の裁きは神の愛の中に含…

神に喜ばれる礼拝を

このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。(ヘブル人への手紙 12章28節) 私たちは「礼拝者」として造られました。私た…

聖さを追い求めよ

すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。(ヘブル人への手紙 12章 14節) クリスチャンでなくとも「平和」を求めている人は多いかもしれませんが、果たして「聖さ」を求めている人はい…

主は訓練される

主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられる(ヘブル人への手紙 12章 6節) モ―セはイスラエルの民に「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない」(申8:5)と言いま…

イエスから目を離してはならない

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル人への手紙 12章 2節) モーセが、はかない罪の楽しみより…

信じなければならない

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙 11章 6節) どうすれば神様を喜ばせることができるだろう?敬…

信仰によって悟る

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。(ヘブル人への手紙 11章 3節) 私たちが「目に見えない真理」を知るために必要なもの、それが「信仰」で…

信仰は保証、確信

信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル人への手紙 11章 1節) 「神様がいるなら見せてみろ!」と言う人がたまにいますが神が目に見えるならば信仰は必要ありません。見えないからこそ信仰が必要なのであり、信仰…

敵が足台とされるのを

キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。(ヘブル人への手紙10章12〜13節) 「敵がご自分の足台とされる」とは「敵対するサタンが完全に神の支配下に置かれる」と…

人々の救いのために

キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。 私たちの「救い」はまだ完成していません。その完成の時はイエス様が再びこの地上に来られる時で…

罪を取り除くため

キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。(ヘブル人への手紙 9章 26節) 旧約時代、イスラエルの民は自らの罪の贖いのために定期的に生贄を捧げなければなりませんでした。しかし、今は私…

とりなすイエス

イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。(ヘブル人への手紙 7章 25節) 私たちに与えられた「救い」「永遠のいのち」はイエス様の贖いの子羊としての十字…

成熟を目指して

私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。(ヘブル人への手紙 6章 1節) 洗礼を受けた時から信仰生活が始まるのですが、それはキリスト者としての成熟を目指す歩みです。しかし、洗礼を受けたことで目的を…

叫び声と涙をもって

キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。(ヘブル人への手紙5章7節) イエス様は完全な人間として、私たちと全く同じ肉体…

私たちの弱さに同情される神

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(ヘブル人への手紙 4章15節) 創造主なる神が人と同じ肉体を持たれたのは、私たち人間、それも全人…

神のことばは生きていて力がある

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。(ヘブル人への手紙 4章 12節) 「神のことばは生きて働く力である」これは揺るぐことのない真理…

最初の確信を終わりまでしっかり保ちさ えすれば

私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。(ヘブル人への手紙3章14節) 救われるためには二つの条件を満たさなければなりません。一つはイエスを主と告白すること(ロマ10:9-10…

イエスは自ら苦しまれた

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(ヘブル人への手紙2章18節) イエス様は罪こそ犯されませんでしたが、私たちがこの地上で経験するのと同様の苦難と誘惑と失意とを経験されました。しかも…

死の恐怖から解放するため

それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。(ヘブル人への手紙2章14〜15節) 冒頭の「それは」は「神の御子が人間と同じ血肉のからだをもったこと」つ…

多くの苦しみを通して

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。(ヘブル2章10節) 救いの創始者、すなわちイエス様は、多くの苦しみを通し…

御子は神の本質

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。(ヘブル1章3節) キリスト教もイスラム教も一神教だから、同じ神様を信じているのですよね?と言われたことがあります。たしかに、一神教という…

万物の相続者なる御子

神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。(ヘブル1章2節) 私たちクリスチャンは「神の子」とされた者です。では、どのようにして、神の子とされたのでしょう?それは「聖霊」を与えられることによってです。なぜ、聖霊を与えられる…

聖霊による再生と刷新

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。(テトス3章5節) 「聖霊による再生と刷新の洗いをもって」という日本語は少し分かりにくく感じますが、この…

良いわざに熱心な選びの民を

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです(テトス2章14節) 「選びの民」は「良いわざに熱心」である。それは「良いわざに熱心」であることは「…

私は信仰を守り通した

私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。(Ⅱテモテ4:7) 上記のみことばは、霊的戦いの重要な一つの側面について教えています。私たちの霊的戦いは何のための戦いか?それは信仰を守るための戦いだということです。それはサ…

みことばを宣べ伝えなさい

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(Ⅱテモテ4章2節) 「時が良くても悪くても」というのは時も場所もわきまえずに福音を語りなさい、ということで…

聖書はあなたに知恵を与える

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。(Ⅱテモテ3章15節) 私たちはイエス様だけが救いに至る道であることを信じているだけでなく、聖書だけがキリスト・イエスに至る道であることを信じてい…

主のしもべが争ってはいけません

主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和に教え導きなさい。(Ⅱテモテ2章24-25節) 私たちは信仰のため、また宣教のため、戦うことが求められています。しかし、それは争うこととは…

自らをきよめれば用いられる

だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります(Ⅱテモテ2章21節) 私たちが神様に用いられるために避けるべきこととして、パウロが具体的に言及しているのは「俗悪な無駄話」(Ⅱテモ2:16)だけで…