テキスト@使徒17:16-34(説教者:高森恒喜牧師)
1.私たちは憂えているか?
「すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるため」(ピリピ2:11)
私たちもパウロのように、偶像礼拝に満ちる世界を見て、創造主なる神が忘れさられている事実に憂えているでしょうか?
クリスチャンの心の中からさえ創造主なる神が締め出されているような状況に危機感を覚えているでしょうか?
全ての人の心に神を求める思いがあり、全ての人に「救い(創造主なる神との回復)」が必要であるという真理を堅く信じているでしょうか?
これらのことを日々自らに問うものでありたいのです。
2.毎日語っているか?
「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒17:11)
「毎日救われる人々が起こされた」という事実に私たちは神のリバイバルのわざを見ることができます。
どうして、そのようなことが起こったのだろう?きっとそこには熱い祈りがあったに違いない、素晴らしい聖霊の臨在があったに違いない。
そう思われるかもしれません。
たしかにそのとおりです。
しかし、使徒たちが「毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであること宣べ伝え続けた」(使徒5:42)という単純な事実がなければ、毎日救われる人々が起こされることはなかったでしょう。
3.十字架と復活を語っているか?
「十字架のことばは、滅びる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(1コリント17:4)
二千年前の人々だから「十字架と復活」の話しを信じることができたのでしょうか?
いえ、二千年前に生きた人々にとっても「十字架と復活」は荒唐無稽な話しに思えたのです。
しかし、その「十字架と復活」を神の選びの民は信じることができる。これもまた神の奇跡です。