Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

罪に死に、神に生きる

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「いのちにあって新しい歩みをするため」(ローマ6:4)にも「罪に死に、神に生きる」とは何かを正しく理解しましょう。

1.聖書における「死」とは何か?「生」とは何か?

彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとする時(創世記35:18)

「罪に死に、神に生きる」ことを理解するためには、聖書における「死」とは何か?「生」とは何か?ということについて正しく理解する必要があります。たとえば「肉体の死」について考えてみましょう。一般的には「生命活動の停止」を「死」と捉えるでしょう。しかし、聖書における「死」は肉体と霊魂の「分離」です。それとは逆に「生」は肉体と霊魂の「結合」です(創世記2:7)。

2.罪に死ぬとは?

私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される(詩篇103:12)

聖書において「死」とは「分離」であることを学びました。従って「罪に死ぬ」とは「罪から分離する」ことになります。イエス様は十字架の贖いのみわざにより、私たちを「罪」から完全に切り離して下さいました。どのようにしてでしょう?それは「律法の下」から連れ出し「恵みの下」に置くことによってです。

3.神に生きるとは?

この息子は死んでいたのが生き返り・・・(ルカ15:32)

イエス様の譬え話しに登場する放蕩息子は実際に死んでいたわけではありませんが、父親は「死んでいたのが生き返った」と言いました。父親を父親として認めず出ていった息子が、自分の素行を反省し、父親のところに帰り、正しい親子関係になったことを「生き返った」と表現したわけです。私たちもイエス様と「結合」し創造主なる神との正しい関係へと導かれる時、神の目に「生きた」者となるのです。

説教者 高森恒喜牧師

(2018年1月28日の「礼拝説教」の要約)

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