もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです(ローマ14:7-8)
1.私は神のものである
あなたがたのからだは・・・聖霊の宮であり、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(Ⅰコリント6:19)
私たちの「からだ」が私たちのものではないということは、私たちの「人生」もまた私たちのものではないということを示唆します。そのことを私たちが心から受け入れることはクリスチャンとして健全な信仰を築き上げていく上でとても重要なことです。
2.私は死んでいる
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)
「私は死んでいる」。この事実も、私たちの人生が私たちのものではないことを示唆する霊的な事実です。「古い私」は死に、キリストにかたどられた「新しい私」が生きる。それこそが、私たちの人生にキリストが生きてくださることなのです。
3.私は遣わされている
あなたがわたし(イエス様)を世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました(ヨハネ17:18)
私たちが「神から遣わされている」という意識を持つことはその霊的な目が開かれることにつながります。なぜなら、その時に私たちは自分の思いではなく、遣わされた方の意志に思いを向けるようになるからです。私たちはシロアム(遣わされた者)の池で目を洗う必要があります。
説教者 高森恒喜牧師
(2018年9月16日礼拝説教の要約)