キリストの教えの中心は「互いに愛し合いなさい」ですが、そこには「赦し」が含まれていることを忘れてはないでしょうか?
1.赦さないなら、従えない
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように(コロサイ3:13)
聖書の最も大事な教え。それは「キリストが私たちを愛されたように愛し合いなさい」です。当然そこには「赦し合う」ことも含まれます。感情のレベルでは赦せないことも多々あるでしょう。しかし、主の御名によって赦しを宣言することはできます。そこに聖霊が働かれるのです。
2.赦さないなら、赦されない
人を赦さないなら、あなたがたの父も・・・お赦しになりません(マタイ6:15)
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します(マタイ6:12)」主の祈りの一節ですが、はたして私たちはそれを実践しているでしょうか?実践しない信仰は死んだものです(ヤコブ2:17)。赦さないことで損をするのは自分だけです。私たちの心は憎しみに満ちると、それがサタンの手がかり足がかりになるのです。
3.赦さないなら、交われない
ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい(マタイ5:24)
「赦し」から出るところの「和解」なしに、私たちは真の礼拝者となることは出来ません。もし、教会が「憎み憎まれる場」となるならば、そこに神の臨在は期待できません。教会が「愛し愛される場」となり「赦し赦される場」となってこそ、そこに神の臨在を期待できるのです。
説教者:高森恒喜師
(20190707 礼拝説教要約)