神は意味もなく私たちを苦しめ悩ますことはないと聖書は教えます(哀歌3:33)では何のために苦しみを与えられるのでしょう?
1.信仰の試験として
あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった(申命記8:2)
苦難が襲ってきた時こそ、その人の信仰が本物かどうかが明らかになります。順風満帆な時は自分に信仰があるように思っていても、試練の中で、実際はそうではないことを思い知らされることもしばしばです。しかし、それはまたとない成長のチャンスでもあるのです。
2.御言葉の学びとして
主は苦しめ、飢えさせ・・・それは、人はパンだけで生きるということをあなたがたに分からせるためであった(申命記8:3)
私たちを生かすのは「神のことば」のみ。それを頭では理解していても、その信仰が血となり肉となるためには、様々な苦難や苦悩をとおらされます。そのようにして「苦しみに会う前には迷い出ていました。しかし、今はあなたのみことばを守ります」(詩篇119:67)と言えるようになるのです。
3.幸福への道として
あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである(申命記8:16)
神が私たちを苦しめることの最終的な目的は私たちに真の幸福を与えることです。私たちは「神の命令に耳を傾けてさえいれば」必ずそれを手にいれることができます。だからこそ、神は私たちがただ「神のみことば」のみに従う者となるよう訓練されるのです。
説教者:高森恒喜師
(2019年10月6日礼拝説教要約)