ある牧師先生から聞いた話ですが、その先生が伝道師として教会に仕えていた頃、一年かけて学びをし、受洗の決意に導いた若い男性がおられたそうです。
その男性がいよいよ受洗となり、兄姉の前で救いの証をする時、先生は心密かに期待したそうです。
きっと彼は証の中で、私の導きのおかげで受洗の決意に至ったと感謝の意を表してくれるだろう。
しかし、その期待は見事に裏切られました。
彼は先生のことにはいっさい触れないどころか、受洗の決意は(先生が勧めたこともない)ある信仰書のおかげだと言ったのです。
それを聞いて先生はがっかり。
同時に少しでも栄光を自分に帰そうとしたことを恥じ入るとともに、やはり、救いは人の手によるものではなく聖霊の働きによるものだなと実感したそうです。