テキスト@箴言27:14他 説教者:高森恒喜牧師
1.常識的判断
使徒の働きには聖霊がパウロ達の宣教を禁じられたことが記録されています。
「宣教」自体は神のみこころですが、時、場所、方法をわきまえないと神のみこころにかなわない「宣教」になることもあるのです。
これは常識的判断から見分けられる範囲もあります。
「朝早くから、大声で友人を祝福すると、かえってのろいとみなされる」(箴言27:14)
との言葉はその一例です。
「人を祝福すること」は神のみこころです。
しかし、時と場所と方法を間違えるとそれは「人を呪うこと」と変わらない結果を招くというのです。
例外はありますが、多くの場合、聖霊の導きと常識的判断は相反するものではありません。
2.使命感と覚悟
時には聖霊の示しはあるものの、それが具体的な方向性を示さない場合もあります。
そのためにパウロと弟子達の意見が正反対になった事例が使徒の働きに記録されています。
パウロがエルサレムに行けば逮捕されることを聖霊が示した時、弟子達はエルサレムに上らないようにと必死に彼に懇願します(使徒21章参照)。
しかし、パウロはだからこそ私は上っていくのだと主張するのです。
結局のところパウロの主張がとおり、弟子達は「みこころのままに」と黙ったわけですが、後の展開から、どちらが神の導きを正しく受け取っていたかは明白です。
3.あのことをこのことを
聖霊の導きが明白でない場合、また自分に与えられている使命が明白でない場合、どうすればよいのでしょう?
それが明らかになるまでじっと待っているべきでしょうか?
パウロ達は聖霊が明白な方向性を示されない時にどうしていたでしょう。
彼らは自分たちの分かる範囲で宣教の働きのために様々なことにチャレンジしていたのです。
「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、またあのことをしよう」(ヤコブ4:15)
とあるように、私たちが神のみこころを求めて様々なことに挑戦する中で聖霊の導きが明らかになることもあるのです。
(2017年1月8日の礼拝説教要約)