Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

王として読む聖書

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テキスト@黙示録22:5他 高森恒喜牧師
王として召されたことを意識しながら学ぶことも大切です

1.王として召されている

彼らは世々限りなく王として治める(黙示録22:5)

私たちは新天新地においてキリストとともに王となるべく召されていると聖書は教えます。夢物語のように聞こえるかもしれませんが、もし、天地万物が唯一全能の神によって造られたことを信じているなら、同様に神が新天新地を創造されること、私たちは栄光のからだに変えられること、そして、王とされることを信じるべきです。

2.王として聖書を読む

王座に就いたら・・・みおしえを巻物に書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない(申命記17:18-19)

私たちが「王」として召されていることを知る時に、聖書を読む姿勢も変わるはずです。たとえば列王記を読む時、それは単にイスラエルの王について記された年代記ではなく、私たちが「王」としてどうあるべきかということを学ぶための教訓として受け取ることができるのです。

3.王として整えられる

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です(Ⅱテモテ3:16)

私たちがみことばによって成長するとは、キリストに仕える王として整えられるということでもあります。王の王であるイエス様が地上において「祈りとみことば」を生活の中心に置かれたように、私たちもまた祈りとみことばを生活の中心に置くものとなりましょう。

(2021年12月12日の礼拝説教要約)