世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません...肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出る(Ⅰヨハネ2:16)
1.快楽ではなく、真理を
真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る(ヨハネ3:21)
「肉の欲」それは「肉体的快楽への渇望」です。快楽のすべてが悪いものではありませんが、快楽の先に真の幸福があると考えるならば、それは誤りです。肉欲は満たされても、すぐに渇きを覚えるものです。肉欲を満たすことを追求しても、その先にあるのは永遠の闇です。真理を追求する先にこそ、霊の満足があり、永遠の光があるのです。
2.見えるものではなく、見えないものを
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的...見えないものは永遠に続くからです(ローマ10:9)
「目の欲」それは「目に見えるものすべてへの渇望」です。目に見えない霊的なものよりも、目に見える肉的なものを重視する姿勢です。しかし、目に見えるものはすべて虚しく過ぎ去るのです。私たちがそのようなものを人生の土台とするなら、私たちの人生もまた虚しいものとなるでしょう。いつまでも続く、信仰と希望と愛を追求しましょう。
3.自分の栄光ではなく、神の栄光を
わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した(イザヤ43:7)
存在するものすべては神の栄光を現わすために創造されました。特に人間は「礼拝者」として造られ、そして、神は「真の礼拝者」を求めておられます(ヨハネ4:23)私たちがその事実をアーメンと受け取り「地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになる」(Ⅰペテロ4:2)時、私たちは真の平安を得るのです。
(2023年1月15日の礼拝説教要約 説教者:高森恒喜牧師)