Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

律法は誰のため

聖書箇所:マルコの福音書2章23節‐28節

聖書の教えが何のためにあるのか?その本質を見極めましょう

1.弱き人のため

隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。申命記 23:25

イエス様の弟子たちは、勝手に他人の麦畑に入り、その穂を手で摘んでいたのですが、それ自体は悪いことではなく、律法(聖書)によって許可されていたことでした。それには、貧しい人や旅人たちの救済措置という目的があったのです。このことだけでも、律法は人のためにあるのであって、律法のために人があるのではないことが分かります。

2.正しい人のため

夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。マタイ 1: 19

穂を摘むことは脱穀作業、つまり、仕事にあたるから、安息日の律法に反する。パリサイ人たちはそう主張しました。彼らに対して、イエス様は旧約聖書の事例をあげつつ、原則よりも本質が大事であることを示されました。ヨセフはその本質をよく理解していたからこそ、自分を裏切った(※実際は違うが)婚約者マリアに愛を実践したのです。

3.愛に生きる人のため

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。ガラテヤ5:14

聖書の教えの最終的な目的は、私たちが「互いに愛し合う」ことにあります。ですから、いくら聖書を学んでも、祈っても、奉仕をしても、そこに愛の実が結ばれなければ、むしろ、互いに裁き合っているとするならば、私たちは、霊的な目が見えなくなってしまっている、その本質を見失っているのです。

(2024年6月2日の礼拝説教要約 説教者:高森恒喜牧師)