Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

真のきよさを求めて

聖書箇所:マルコの福音書7章1節~23節

律法は私たちの生活指針として与えられた神からの贈り物。しかし時として、その解釈や適用が本来の意図から外れてしまうことがあります。それは何故でしょう?

1.口伝律法と成文律法

なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。マルコ7ː5

「昔の人たちの言い伝え」とは「口伝律法」のことです。パリサイ派は「成文律法(聖書)」と同じくらいに口伝律法を重視しました。ですから、そこに定められた「手洗いの儀式」を実践しないイエス様の弟子に憤慨したのでしょう。そして、それは師の責任だと、イエス様に「なぜ?」と、おそらく詰めよるようにして、問うたと思われます。

2.律法の本質、中核

あなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。マルコ7ː13

 「成文律法(聖書)」を日々の生活に適用するための教えとして発展した「口伝律法」。しかし、それがいつの間にか歪められてしまい、聖書の教えの本質を失ってしまっていること。それどころか、聖書の教えにあからさまに反する教えになっていることを指摘されました。聖書の教えの本質、その中核は何か?それは愛です。

3.内なる汚れときよめ

外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。マルコ7ː15

聖書の教えに正しく応答して生きようと思っても、その心に「汚れ」があるならば、すなわち、神との正しい関係を妨げるものがあるならば私たちの思考は歪められます。そして、それらの「汚れ」の多くは人間の欲望に起因するものがほとんどです。私たちは日々、自らの心を点検し、清めていくこと、またその状態を維持することを心がけましょう。

(2025年2月2日の礼拝説教要約 説教者:高森恒喜牧師)