Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

イエスのため息

聖書箇所:マルコ8章11節~13節

イエス様はパリサイ人たちと議論されることなく、ただ、ため息をつかれました。私たちはそこに何を読み取ることができるでしょう? 何を学ぶことができるでしょう?

1.試されるイエス

 パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとした... マルコ8ː11

 パリサイ人たちはイエス様のところに来ましたが、それは真理を求めてのことではなく、自分たちの正義や名誉を守るためでした。彼らの目は高ぶりと貪りで塞がれていたので、イエス様の中にキリストを見出すことができませんでした。彼らは自分たちこそ神の律法の教師であると自負していましたが、それらは偽りの信仰に基づくものでした。

2.ため息をつかれるイエス

 イエスは、心の中で深くため息をついて... マルコ8ː12

 議論をふっかけて来たパリサイ人たちに対して、イエス様の口から最初に出てきたのは深いため息でした。そこにはイエス様の憂いと悲しみと苦悩を見出すことができます。イエス様はすべての人々に神のあふれるばかりの恵みを体験してほしいと願っておられますが、高ぶる人たちにその恵みが注がれることはありません。水が高いところから低いところに流れ下るように、神の恵みはへりくだる人に注がれるのです。

3.離れて行かれるイエス

 イエスは彼らから離れ... マルコ8ː13

 イエス様はパリサイ人らと議論されることはなく、彼らの要求するしるしを見せることもなく、ただ彼らから離れて行かれました。神は高ぶる人たち、また貪る人たちとともに歩むことはありません。なぜなら、彼らは神に敵対する存在だからです。パリサイ人たちは自分たちは神とともに歩んでいると思っていましたが、高ぶりに捉えられてしまった彼らは、実際は真理に敵対するものとなってしまっていたのです。

2025年3月16日の礼拝説教要約(説教者:高森恒喜牧師)