Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

両目に手を

聖書箇所:マルコの福音書8章22~26節

福音書に複数記録されている目の不自由な人の癒やし。それらは私たちの霊の目が開かれることを象徴する癒やしの出来事として理解することができます。

1.連れ出されるイエス

イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。マルコ8ː23

イエス様は目の不自由な人を癒やされるにあたり、あえて、ベツサイダから彼を連れ出されました。ベツサイダは後に、コラジンと並び悔い改めなかった町々の代表として名を挙げられたところでした。そのことから、私たちの霊の目が開かれるためには、まず何よりもこの世の世界観、人生観、価値観から離れること、そして、その上でイエス様に触れられることの必要性を読み取ることができます。 

2.再び触れられるイエス

イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。マルコ8ː25

私たちの霊の目が開かれるためには、イエス様に触れていただかなければなりません。そして、イエス様以外に私たちの霊の目を開くことのできるお方はいません。しかし、ただ一度だけ触れられたからといって、すぐに視界がクリアになって、全てが分かるようになるかというとその限りではありません。私たちはイエス様に触れられ続ける必要があるのです。そして、目が開かれ続ける必要があるのです。

3.戒められるイエス

イエスは...「村には入って行かないように」と言われた。マルコ8ː26

イエス様は癒やしを体験した目の不自由な人に「村には入るな」と言われました。これは救われた私たちにとっては、昔の間違った世界観、人生観、価値観に従って生きるなという戒めとして受け取ることができるでしょう。もし、私たちが目が開かてなお、この世の世界観、人生観価値観に生きるなら、私たちの霊の目はすぐに再び閉ざされることになるのです。そのようなことのないよう、悔い改め続けましょう。

2025年4月13日の礼拝説教要約(説教者:高森恒喜牧師)