Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

神の真理と臨在を求める心

マルコの福音書9章9~13節

イエス様の変貌を目の当たりにしたペテロとヤコブとヨハネ。彼らはすぐにでもそのことを誰かに話したかったことでしょう。しかし、イエス様は「今見たことを誰にも話してはならない」と口止めされました。何故でしょう?

 それはまだ「時」が来ていなかったからです。彼らは確かに証人として選ばれていました。しかし、それを正しく証言するための条件はまだ整っていなかったのです。全ての物事に神の時があります。神の時をわきまえない言動は、神の計画を妨げることになります。そして、神の時に正しい言動に導くのは内在の聖霊です。

弟子たちは、口止めが解かれる期間「死人の中からよみがえるまで」の意味について議論しつつ山を下っていました。その中で、自分たちの議論と「エリヤが来る」との教えに関連性を感じたのか、それについてイエス様に尋ねます。

するとイエス様は「すでにエリヤは来た」と答えられ、その時、弟子たちは来たるべきエリヤが、実はバプテスマのヨハネであることを知るのです。

しかし、「エリヤが来る」と教えていた肝心の律法学者をはじめとしたユダヤ人の指導者層たちは、バプテスマのヨハネにエリヤを見出すことができず、結果、ナザレのイエスにキリストを見出すことができませんでした。本来なら、日々神の言葉に学ぶ律法学者や、日々神の宮で仕える祭司たちこそ、預言の成就にいち早く気づくべきなのに、何故? 

それは、彼らの律法を学ぶ姿勢、また神の宮で仕える姿勢には、真理を求める心も、神の臨在を慕い求める思いもなかったからです。神の臨在を慕い求めましょう。真理を慕い求めましょう。その中でこそ、私たちは神ご自身と出会うことができるのです。

2025年6月1日の礼拝説教要約(説教者:高森恒喜牧師)