マルコの福音書9章30節~32節
マルコ9章30節には「イエスは、人に知られたくないと思われた」とありますが、なぜ、イエス様はそう思われたのでしょうか?
理由は明記されていませんがリビングバイブルでは続く31節を「なるべく多くの時間をさいて、弟子たちと語り合い、教育するつもりだったから」と訳し、その一つの理由を明確にしています。
まず、私たちは自分たちがイエス様の弟子であることを今一度確認しなければなりません。私たちとイエス様との関係は主人としもべとの関係でもありますが、そのとき、しもべに求められるのは主人の命令に従うことです。
では、師と弟子の関係ではどうでしょう?弟子のすべきことは師に学び、師に倣う者となることではないでしょうか?
どうでしょうか? 私たちは日々、イエス様の似姿に近づくことを望んでいるでしょうか?
もし、そうでなかったら、私たちはキリストの弟子としての自覚を持っていないことになります。そのままではクリスチャンとして成長することはできません。そして、成長していないと、乗り越えることのできない壁があることを思い知らされるのです。
だからこそ、イエス様は私たちと多くの時を過ごし、私たちを教え、練り清められることを望まれるのです。「朱に交われば赤くなる」と言うことばがありますが、同様に「主と交われば清くなる」のです。
そして、「自分自身をきよめるなら...尊いことに用いられる器となり...あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。」(Ⅱテモテ2:21)
2025年6月15日の礼拝説教要約
(説教者:高森恒喜牧師)
(説教者:高森恒喜牧師)