
マルコの福音書9章30節~37節
「来る途中、何を論じ合っていたのか?」イエス様にそう尋ねられた弟子たちはみな急に黙ってしまいました。彼らは自分たちが道すがら議論していた議題「誰が(この中で)一番偉いか」が、決してほめられたものではないことは自覚していたようです。
おそらく、彼らが十代後半から二十代半ばであったこと、また、その大半が金よりも名誉を求める気風のあるガリラヤ人であったこと、さらにはその場のノリもあいまって、若者たちは、そんな議論で盛り上がっていたのでしょう。
私たちが彼らのように教会の中で「誰が一番偉いか」と議論をすることはないでしょう。しかし、心の中で、私はあの人より信仰がある、あの人よりも奉仕している、私のほうが優れている、というような思いがあるとするなら、その人はあのときの弟子たちとあまり変わりがありません。それは「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」(ピリ2:3)とのキリストの精神とは相容れないからです。
それにしても、なぜ多くの人は「人を自分よりもすぐれた者と思う」ことに抵抗を感じるのでしょう。それは「相手をすぐれた者」と認めると、必然的に「自分は劣っている者」と認めることになると考えているからかもしれません。もし、そうであるならば、その人はまだ神の国の市民としての価値観を身につけていないことになります。
なぜなら、神の国は他人と比較して優劣を決める世界ではないからです。あえて言うならば、へりくだって、自分を一番低くすることができる人こそ、神の目に一番すぐれている人です。
2025年7月6日の礼拝説教要約
説教者:高森恒喜師
説教者:高森恒喜師