Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

聖霊に満たされることの重要性

エペソ人への手紙5章18節

神の三位一体であることを信じる私たちにとって「聖霊」はまぎれもなく「創造主なる神ご自身」です。三位一体を認めないキリスト教の異端は聖霊を単なる神の「影響力」としかみなしません。ですから、聖霊に満たされるということは、神の力に満たされること以上の意味を持ちえません。しかし、聖霊が、神ご自身であれば、聖霊に満たされるということは「神の力に満ちる」だけには留まらないのです。

何よりも聖霊は、私たちを教えてくださる方です。私たちはこのことを知るだけでも、聖霊が単なる「力」ではないことを知ることができます。人格のない力は人に何かを教えることはできません。では、聖霊は私たちに何を教えられるのでしょう?それは神の真理のみことばです。聖霊は、みことばによって、私たちに罪を示し、また、新たにし、導かれるのです。聖霊に満たされてはじめて、神のことばは私たちの内に生きて働く力となるのです。このことを決して忘れてはいけません。

また、聖霊によって私たちは神の子とされます。聖霊に満たされれば満たされるほど、その実感は深まり、今まで遠い存在であると感じられていた神を身近に感じられるようになるのです。これは、自分自身と神との深く密な交わりを持つためにとても大切なことです。そのような神との密な交わりをとおして、私たちはイエスの似姿へと日々変えられ、御霊の実を豊かに結ぶようになります。そして、その御霊の実を分かつ手段として与えられているのが聖霊の賜物であるとも言うことができるでしょう。そのようにして、私たちは地の果てまで主の証人となるために整えられていくのです。

2025年9月28日の礼拝説教要約(説教者:高森真理子師)