Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

仕えられるためではなく

マルコの福音書10章35節~45節

イエス様の口から直接、しかも幾度となく「受難告知」を耳にしていたであろう弟子たち。しかし、彼らはその内容を全く理解できませんでした。受難を目前に、人としては精神的に追い詰められておられたイエス様のところに来て、あっけらかんと将来的地位の確約を願い出るヤコブとヨハネの言動には、彼らの無理解のほどが如実に表れています。

 もし彼らが、イエス様の受難を少しでも理解できていたなら、そんなことはしなかったでしょう。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」との問いに「できます」と即答できなかったでしょう。

 それにしても、なぜ、彼らはこれほどまでに理解できなかったのでしょうか? その一つの理由が、彼らがイエス様のことを自己実現の道具のようにみなしていたことにあります。

 私たちもまた同じです。長年クリスチャンであったとしても、また豊富な聖書の知識を蓄えても、誰よりも熱心に奉仕に携わっても、もし、イエス様を自己実現の道具とみなしているならば、その霊の目は何も見えていないし、その霊の耳は何も聞こえていないのです。

 そうならないよう、今一度、イエス・キリストこそ主であり、私たちはそのしもべであることを心に刻みましょう。あなたの願いを叶えるためにイエス様が存在するのではありません。あなたがイエス様の願いを実現するために存在しているのです。それを認める時、はじめて、私たちの目は見えるように、私たちの耳は聞こえるようになるのです。

2025年10月19日の礼拝説教要約(説教者:高森恒喜師)