Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

異言について

「異言」については様々な見解がありますが、私たちの教会が「異言」をどのように理解しているかを確認しましょう。

1.しるしとしての異言

パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした(使徒19:6)

使徒の働きで人々が聖霊のバプテスマを受けた際、ある人々は祈っている時、ある人たちは説教を聞いている時、ある人たちは按手された時、とそれぞれ状況が異なりましたが、そのいずれにおいても異言というしるしが伴いました。ただ預言がしるしとなることもあったようで、異言が聖霊を受けた際の唯一のしるしではなかったようです。

2.預言としての異言

私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは...私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは...(使徒2:8,11)

異言は「本人には理解できない外国語(御使いの異言も含む)で神のみわざを語ること」です。ですから、異言を外国語としてそのまま理解できる人が聞くなら、また、異言を解き明かす人がいるなら、それは「預言」となり聞く人々に恵みを与えるものとなります。しかし、そうでないなら異言は人をつまずかせる場合がありますので注意しましょう。

3.成長のための異言

異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます(Ⅰコリント14:4)

パウロは「皆が異言を語るでしょうか?」(Ⅰコリ12:30)と言っていますが、同時に「あなたがたがみな異言で語ることを願います」(Ⅰコリ14:5)とも言っています。異言は解き明かしが伴わなければ集会での取り扱いについては配慮が必要ですが、個人的な祈りとして異言を語ることは、その人の霊的な成長の助けになることが期待できます。

(2022年8月28日の礼拝説教要約 説教者:高森恒喜牧師)