クリスチャンだからといって「病」を経験しなくなるわけではありません。私たちは「病」をどう捉えるべきでしょうか?
1.「病」にかかることは不信仰ではない
エリシャが死の病をわずらっていたときのことである(Ⅱ列王記13:14)
「病」を煩っている人に対して、その原因は不信仰だから、祈りが足りないからなどと心ないことを言う人がいます。であるならば、病で死んだ預言者エリシャは不信仰だったことになります。「病」の中にあることは不信仰だからではありません。もちろん「救われていない」わけでもありません。それもまた神のご計画の中にあるのです。
2.「医者」にかかることは不信仰ではない
医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です(マルコ2:17)
ある意味まじめなクリスチャンほど医者にかかることに後ろめたさを覚えるかもしれません。それが不信仰のように感じるのです。しかし、原則的に肉体の病にしろ、精神の病にしろ医療機関で適切な治療を受けることは神のみこころです。どちらにしろ最終的な「癒やし」は神の御手にあるのです。神に祈りつつ適切な治療を受けましょう。
3.「癒されない」ことは不信仰ではない
わたしの力は弱さのうちに完全に現れる(Ⅱコリント12:9)
パウロは目の病気を患っていたようです。彼は神に癒やしてほしいと熱心に祈りましたが癒されることはありませんでした。神は病を癒されることをとおして栄光を現されますが、時には癒されないことをとおしてご自身の栄光を現されることもあるのです。そのためにも、私たちは神のみこころを求める姿勢を保ち続けることが大切です。
説教者:高森恒喜師
(2019年5月5日礼拝説教の要約)