五巻に分けられる詩篇の巻末はいずれも「神は永遠にほむべきかな」との内容の詩です。そこから私たちは何を学ぶことができるでしょう。
1.創造主なる神だけが礼拝の対象である
ほむべきかな、神である主、イスラエルの神。ただひとり奇しいみわざを行われる方(詩篇72:18)
天地万物を創造された唯一全能の神こそ礼拝の対象であり、礼拝されるべきお方であると聖書は教えます。神が礼拝を求められるのは自らの偉大さに陶酔するような自己中心的なものではありません。私たちが神にあって一つとなるためです。なぜなら、礼拝とは神との「交わり」だからです。神は威張りたいから礼拝を求められるのではありません。
2.人間は神を礼拝するために造られた
私は生きているかぎり、主をほめたたえる。いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌う(詩篇146:2)
人間だけが霊的なことに思いをはせることができます。だからこそ、世界中どこへ行ってもそこに宗教があるのです。その事実は人間がそもそも礼拝者として創造されていることを示しています。しかし、真の神以外を礼拝することは偶像礼拝であり、自らに呪いを招きます。祝福された人生を歩むためには礼拝の生活を確かなものとすることです。
3.どのような状況下でも礼拝を止めない
主よ、あなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか...主はとこしえにほむべきかな(詩篇89:49-52)
私たちは物事が上手くいっている時だけでなく、物事が上手くいっていない時も、最悪の状況にあっても神をほめたたえることを止めてはなりません。実際、ダビデはサウル王に命を狙われ亡命し、さらに亡命先でも命の危険に直面する中で「私はあらゆるときに、主をほめたたえる」(詩34:1)と礼拝者としての姿勢を崩すことはありませんでした。
(2022年5月8日の礼拝説教要約 説教者:高森恒喜牧師)