Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

神に喜ばれる捧げ物

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私は・・・祭司の務めを果たしています。それは異邦人が・・・神に喜ばれる捧げ物となるためです(ローマ15:16)

 パウロは自らの働きを祭司の働きになぞらえ、クリスチャンを「神に喜ばれる捧げ物」とすることこそ使徒の務めであると語りました。

では「神に喜ばれる捧げ物」になるとは具体的にどのような者となることなのでしょうか?その答えは「聞き従うことは生贄にまさる」(Ⅰサム15:22)という御言葉に見ることができます。

それは「神に聞き従う者となる」ことこそ神に喜ばれる最高の生贄であると言い換えることができます。では、神に従順な者となるために私たちはどうすればいいのでしょうか?

今回は旧約時代、敵国バビロンが目前に迫った時、預言者エレミヤのもとに神の言葉を求めに来た民が、それがどんな答えであっても従うと言っていたにも関わらず、神の言葉に従うことが出来なかった出来事を反面教師として学んでいきましょう(エレミヤ42~43章)。どうして、彼らは神の言葉に従うことができなかったのでしょう。その理由を3つ挙げます。

①自分たちの考えが正しいと思っていた

民たちは自分たちの考えを後押しして欲しいだけでした。私達も自分が正しいと思う考えを後押しするために都合よく御言葉を選択したり、解釈したりしないように気をつける必要があります。

②この世の常識にとらわれていた

常識的な判断からすれば、民の考えのほうが正しいように思えたでしょう。しかし、神のみこころは時に超常識なのです。だからこそ私達は聖書が教える世界観、人生観、価値観を確立する必要があるのです。

③霊的指導者に従う心がなかった

もし、民に預言者エレミヤを霊的な指導者として心から認める姿勢があれば、神の言葉に従うことができたでしょう。神が立てられた権威に従うことが出来ない人は、結局神に従うことも出来ないのです。

説教者 高森恒喜師

(2018年11月11日礼拝説教の要約)