Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

集まらないことは罪なのか?

f:id:tkoki777:20200809201104p:plain

テキスト@へブル10:25他 説教者:高森恒喜牧師
コロナ禍中「集まり」を中止することについて考察しましょう

1.動機について

人はうわべを見るが、主は心を見る(Ⅰサムエル16:7)

「集まることをやめたりせず」(へブル10:25)とあるのに、コロナ禍中だからといって教会の「集会」を止めるのは罪では?そう考える人もいます。しかし、それは「教会における集会を軽視する人たちに同調して」集会を止めてはならないということであって、コロナ禍中「命を守るため」に集会を一時的に中止することとは全く違う話しです。

2.人数について

二人か三人かがわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるのです(マタイ18:20)

 集まる人数が多ければ多いほど、神の臨在が溢れると考える人もいます。だから教会を構成するメンバーは一堂に会して礼拝するのが望ましいと。しかし、それは真実ではありません。今しばらくは、コロナと共生しなければならない中、その真実を悟ることはとても大切です。

3.一致について

私は肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたとともにいて(コロサイ2:5)

「二人、三人」という集まりをもつことさえ難しい状況に置かれることもあるでしょう。しかし、重要なのは、物理的に集まることよりも、霊的に一つとなることです。もちろん、これは物理的に集まることの重要性を否定したり、軽視したりするわけではありません。

(2020年8月2日の礼拝説教要約)