創造主なる神が味方であるからといって、クリスチャンが試練を経験しなくなるということではありません。むしろ、神が私たちに試練を与えられることもあるのです。それは何故でしょうか?
1.試練に遭わせられる神
神がアブラハムを試練にあわせられた(創世記22:1)
創造主なる神は私たちを試される方です。ある時は「誘惑」によってある時は「賞賛」によって、そして、ある時は「苦しみの炉」によって(イザヤ48:10)。もちろん、神は意味もなく私たちを苦しめる方ではありません(哀歌3:33)。神の与える試練は時に理不尽に思えるものですが、そこには神の大いなる目的があるのです。
2.従順を求められる神
アブラハムは・・・息子を屠ろうとした(創世記22:10)
試練にはテスト(試験)という意味合いがあります。それは私たちの神様に対する従順を知るためのテストです。従順でなければ、神は私たちをとおして力ある働きをすることができないからです。もし、私たちが神の与える試験に合格するならば、神は私たちを新たな信仰のステップへと導かれることでしょう。
3.全てを備えておられる神
アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も「主の山には備えがある」と言われている(創世記22:14)
神に対して従順であれば、神が全てを備えてくださる方であることを知ることができるでしょう。神がアブラハムをあらゆる面において祝福されたのは、アブラハムがあらゆる面において神に従順であったからにほかなりません。自らの信仰生活を振り返って見る時にどうでしょう?本当に神の国と神の義を第一にした生活を送っているでしょうか?
(2022年2月6日の礼拝説教要約 説教者:高森恒喜牧師)