Nichinan Chapel

飫肥杉香る礼拝堂 日南チャペル

たとえそうでなくとも

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの「たとえそうでなくとも」という信仰に学びましょう。なぜ、彼らはそのような信仰を持つことができたのでしょうか?

1.神との分かちがたい絆

男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる...この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っている(エペ5:31-32)

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは偶像礼拝を拒めば殺すと支配者であるバビロンの王に脅されても、それに屈することなく、神は必ず助けて下さる、たとえそうでもなくとも偶像礼拝はしないと言ってのけました。彼らは神様を裏切るぐらいだったら、死んだほうがましだと思っていたのです。そこには神との分かちがたい絆があったのです。

2.神との生きた交わり

イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた(ルカ5:16)

イエス様は朝に夕に祈られました。時には断食をして、時には徹夜をして祈られました。イエス様にとって祈りは何よりも優先されるべきことでした。それはつまり、父なる神様との交わりを何よりも大切にし、また何よりも、喜びとされていたということです。また、そのような交わりなしに、神様と固く結び合わされることはありません。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴもそのような祈りを捧げていたのです。

3.神に残された民として

わたしはイスラエルの中に七千人を残している...バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」列王記第一19章 18節

ユダヤ人は不信仰のゆえにバビロン捕囚の憂き目にあったわけですが、ダニエル、そしてシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴには不信仰の片鱗も見ることがないのはある意味不思議なことです。どのような時代においても、純粋な神への信仰を保つ「残りの民」が存在します。私たちもまたそのような「残りの民」となりたいと願うのです。

(2023年2月12日の礼拝説教要約 説教者:高森恒喜牧師)